昭和五十六年六月二十七日 朝の御理解


御神訓 信心の心得
 一、神は聲もなしかたちも見えず疑ば限りなし恐るべし、疑いを去れよ


 絶対信という事を申します。絶対信という事は、私は神の絶対愛を信ずる事だと思うね。それを合楽では一切神愛というふうに説いて、成る程こうした難儀、こういう困った事、こんな悲しい事と思う事でも、だんだん信心を続けて行っておる中に、成る程神愛であったなあと分かるように説くのです。だから分かっただけではなくて絶対愛を信じたら分かったら、絶対信が生まれてこなければいけんのです。その絶対信を頂かせて頂く事の為に教えを頂き、又修行に取り組まなきゃならんのです。
 心行信行家業の行とか、まあ時に家業の行と言ったような事は一日一生懸命働いたから家業の行じゃないのです。例えば、お百姓さんが持つ鍬にも鎌にもその中に修行を実践させて頂いて修行させて頂いておるとしての一日でなからなければ、一生懸命働いたから修行という事じゃないです。もう大変な違いなんです。ただ一日一生懸命働いた。一生懸命修行させて頂いたという事になるのですから、大変な違い。
 昨日から研修の時にも申しました事ですけれども、結局修行の内容、例えばここで修行生の方達が、一生懸命それこそお道の教師というなら、勿論自分が助かる事、そしてその周辺にも沢山な難儀な氏子が取り次ぎ助けられる事の為の、まあ言うなら修行をしとる訳です。ですから、先ずは助からにゃいけない。それには先ず、神の絶対愛を信じ絶対信のおかげの頂けれるような信心を致しませんと人は助からん。勿論自分も助からん。一切神愛と分かっただけではおかげにゃならんね。昨日の御理解、神と仲善うする信心という事ね。本当に神様と仲善うして有り難い神様だなあ、本当に有り難い神様と本当に分かるという事は、その前提においてですね、この神様は恐いお方だなあと分からなければ、といったような事を申しましたね。いや本気で私共が絶対愛を分かり、絶対信を頂こうとすると、神様は様々に言うならば、修行を求め給うのです。ね、だからその修行をおろそかにしたり、怠ったりしてはいわゆる絶対信は生まれて来ません。昨日も、研修の後にでしたが、今、梅山さんたちが親子三人で修行さしてもらいよりますが、夫婦でここへ出て参りまして、今朝方から今子供が小学校一年生で、蚊に喰われたか何かでこう腫れておった。それで先日妹が見舞いに来てくれた時に、そのかゆみ止めの薬を置いていってくれた。だからそれをすぐ、あのまあつけさせて頂きましたらね、腕の付け根からこう腫れ出した。とそして御理解を頂いて初めてまあ夫婦の者がはっとした訳でしょう。
 ここにあんただん何の修行に来とるんのち神様から言われたような感じがしたんじゃないでしょうか。神様を頂くという事は神様を信ずるという事なんだね。決して薬は飲んじゃならんばい、医者にかかっちゃならんばいという事じゃ決してない。ね、けれどもね、本当に神様を信ずる働き、力を頂く事の為には、子供が蚊に喰われてかゆい、はあ早うお神酒さんをつけなさい。そしておかげを頂く、子供ももう薬、注射ちゃいわんごつなります。私の方の孫たちは皆そうですね。あのう、いちえというのが居りますが、足をこう火傷した時なんかもうそれこそ、「お神酒、お神酒」というて必死で泣いたという事です。お神酒をつければおかげ頂くんだとこう思ってるんです。
 昨日は、或る教会の総代をして自分の娘をその教会の息子さんにやって、もうそれこそ、大きな事業をしとったけれども、もう殆どお供えしてしもうて、家屋敷まで売ってお供えをしたという。ところが、教会の御比礼はたたん。息子さん達娘さん達は大学を出て二人共医者になってある。といったような教会の実情を細々と書いてお届けがあった。こういう場合どういうふうに、私の在り方がなったらよかろうかとね。金光様の教師の資格を持って居っても、持って居られるそうですが、そしてまあその医者でも、どんどん繁昌すりゃあいいけれども、繁昌せんから教会には沢山の普請をされたそうですから、借債が残っておるとこういうのです。
 ね、本当に神様を信じ、そこから又、信じられるおかげを頂かせて頂かなきゃなりませんけれども、先ずは神様を信ずる。先ずは手立としてですね、本当にお神酒さんだけで御神米だけでおかげ頂けるかとまあ試してみるわけじゃないけれども、そういう信心を本気で身につけて、そして神様の働きの間違いない事が分かって後に、医者でもあり、お薬でもある位な特に合楽で修行しとるならそん位な気持ちがなからなきゃ出けんと私は思うのですけれども、梅山さん達夫婦に出て来ましたから、今日のあんたの発表の時にゃこの事だけを言えばよかったのう、しかとうもないまとめなんかしとかんで、本当に今朝からこんな事でしたと、今朝の御理解は何じゃったか。
 神と仲善うする信心、為には先ず、ならこの神様は、有り難いだけじゃない恐い神様じゃと言ったような事がです、お前は何の為に修行に来て居るのか、娘が蚊に喰われとって、さあお薬つけてやろうといったような事で信心が出けると思うか。ね、信ずる心が生まれると思うか。まあそれに気づいたからお詫びに出て来た訳でございましょうけれどもですね。もう全ての事を神様を信ずる事の為に、信ずる事の出来る事の為の修行。だからその修行はです、なら合楽に朝から晩まで修行しよりすから、修行になるかというと修行にならん。その内容が雑巾一つ持たせて頂くでも勝手の御用させて頂くでも、お広前に座っておるでもね、それを修行と頂いて始めて修行になるのだと、しかもその修行に専念が出来るという所に合楽の修行生の修行があるのだ、その事だけに専念出けるのだ。私は今日は今こうやって今この双眼鏡でこの項目が薄いから、見ますと隅から隅まで見えますです。修行生の方が少うくない。
 私は今日言おうと思いよる、朝の御祈念にも出て来れんごたることでは、合楽で修行する資格はなかばいち言おうと思いよる。ね、昨日も研修の時がえらい少なかったから、妊娠のおかげ頂いとる先生方がいくらも居りますが、今日は具合が悪くてやすんどりなさいますとこう言う。それでまあ、それこそ笑い話に言うた事でしたけれども、姑親と一緒に生活をしよると思うたら、姑親から睨まれとると思うたら、そげん妊娠したけんでちょっときつかけんで、寝るてんなんちゅうこつあ出けんばい。、出けたにしても、なら朝の御祈念だけは欠かさん、研修の時だけは出てくると言うたような心掛けにならなきゃいけないよと。あんたどんが、部屋々々に婆さんの、あんたげん婆さんの写真ばはっとかんのち、私は婆さんからずうっと姑婆さんがこうやって見よる訳、ねさあ本当悪かなら、婆しゃま具合の悪うございますからちょっと休ましてもらいますと言うでしょうけれども、ちょこっとただ、身ふたつになるとじゃけんちったきつかすさあい。そりけんちいうちからごろっと寝るごたる、そして、一番大事な研修も出て来ん、朝御祈念にも出て来んというような事ではね、いわば合楽で修行するというならば、ここに居るというだけで、いわば内容に修行の精神が無い証拠ですから、修行の精神の無い者が合楽で神様のおまかないを頂く事は出けない。
 私は今日は皆さんに分かって頂くのはね、この皆さんが信行、心行、家業の行とこう言われるその心行の内容をもう一辺確かめて下さい。あの確かめるという心に掛けるだけでもね。あのう、その事が修行になるです不思議に。そして一日をです、家業の行と仰せられるから今日は本当に家業の行が出来たという私はおかげを頂いて、初めて言うならば、一切が神愛、言うならば絶対、絶対愛、神の絶対愛という事をあらゆる角度から聞かせてもらって分かる。成る程と合点がいく、だからそれをいよいよ自分の血に肉にする事の為にです、絶対信をいただかなきゃなりません。その絶対信こそが、いわば私の命で有り私が助かるという事は、この絶対信なんです。ね、だからそういう、いうならば絶対信のおかげを頂く事の為にぁ、子供がちょっと蚊に喰われたけんで、さあかゆみ止めをつけてやろうと言ったような事からは絶対信は生まれて来ない。絶対信それはやっぱり本気での神様の一分一厘間違いない事、いわば梅山さんは善い悪いの意味合いに於いて、一分一厘間違いない働き、本気で修行しようという夫婦が言うとるから、本気で修行させようとする働きがもうそこに起こったんだと思うですね。つけたら腕の付け根から腫れたとこう言う。言うなら、神様の間違いのない、いうならば働きをね、見せて下さったのだと思いますけれどもです、心の中に修行という内容があったらもう絶対医者てん薬てん言いませんよ。 そんな場合、皆さんがね、成る程朝のお参りをなさる事もこれは信心の行ですね。信行です。そこでなら、心の行ですという事は自分の一日のいうなら信心御用即心行だとね。いうなら家業の行だと言うておって、一日働いて今日も結構な家業の行をさしてもらいしたでは、本当のこつじゃないわけ。その内容が家業の行が本当にそのまま行になっておるかと、ね、そして心の中に掛け通しに掛けておってこういう時には、うかつにしてやりそこなう所をこれを修行と思うておったから、おかげ落とさんでよかったと心に思うような一日であって今日も結構な家業の行をさせて頂きましたという事になるのでしょうかね。  いわゆる皆さんの修行観、合楽に朝から晩まで居るから、よか修行が出けとるなさるという事じゃ決してない。その内容が一事一事が修行としての受け止め方が出けて初めて、しかも修行生の場合はその事だけに専念するね。借金の事を苦にする事もいらん、食べる事、衣食住の事を心配する事は要らん。その事だけに専念するとじゃけんね。だからとりわけそんなら、そのよい修行が出けなきゃならんのにかかわらず、誰も言いてがない、どうもないからと言うてどうかあるちいやごろっと寝るね、眠かったちいや朝の御祈念にも出て来れんと言ったような事ではいわば、本当の神愛を悟る事も出けないし、絶対信は勿論の事、そういう修行をやりぬかせて頂いての心行、信行、心行でなからなければならん。神様を信ずるという事、それはどこまでも信ずる、絶対信を目指してのお互い信心修行でなからなければならんと思います。 どうぞ。